最初に違和感を覚えたのは、一人称小説なのに三人称っぽく表現しようとしていて、 それがまったくうまくいっていないという点だった。新本格と呼ばれる ジャンルのミステリを読みなれていれば、これ読んで一人称=諌早であると 思う人はむしろ少ないと思う。その周辺の記述を読んでいれば一人称=長崎 であることはすぐに分かるのだが、ここで深く考えずに、節ごとに一人称が 場面ごとに変わったり、三人称の記述になったりと使い分けているのかな、 と思ってしまった。 ボクっ子については、そういうキャラなんだろうなと勝手に思い違和感とすら 感じなかった。本文で書いた、こんなやりかたもあったのか! というのは 登場人物一覧で読者に本当の名前と性別を明かし、 劇中の登場人物たちは、一人を除いてそれを知らない状態、という部分を指している。 同じように性別を偽るという点では「迷路館の殺人」もそうだけど、 こっちの方がよっぽどスマートだと思った。 そして、冒頭の段落で書いたような凝った書き方をなんでするのか?という点も、 「一人を除いてボクっ子の本当の名前と性別を知らない」というところから、 「彼女」や「本当の名前」が出ている一人称の記述はすべて本当の名前と性別を 知っている人物となり、三人称っぽく見えた記述も実は全て一人称視点の 記述になっているということになり、結果として、本人が登場しないシーンでは 「盗聴」という手段を使っているということまで導かれるという徹底ぶりだった。 繰返しになるが、こんなやりかたがあるのか、と感動した。 しかし一方で、あまりにあからさまに疑わしいところを示していて、実際 「そのへん」に真相があるので、このやり方は本当にいいのかなあという 違和感は少しある。また、会話とかもこの記述にひっぱられてちょっと不自然だし、 そもそも会話の中で不自然すぎくくらい長崎の存在感がないということもある。 一人称である本人が記憶を元に再現したとか、そういう解釈も可能だけど。